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命と祈り [My Life]

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無力であること、悪いことではない。でも、考えてしまう。
 
 

今日、久しぶりに友人からメッセージが届いたんだけど、愕然としてしまった。

元同僚の方が先週末になくなったと。 うつ病だったそう。 

ワタシが退職するときにご挨拶に行ったところ、とっても驚き、『うらやましいな~』ってちょっと辛そうに話してくれた。 僕も色々思うところがあってね・・・って。 おもむろに机の中から袋を取り出して、

『お餞別にあげるよ』

と、結構高級なペンがどっさり入った袋から色々見せてくれた。 え、こんな高価なもの、だめですよ~。

『いいんだって、みんな貰い物だし、使ってないからね。 

写真の『Waterman』のペンをいただいた。 書き心地が良いし、貫禄のある重み、人前で使うのに恥ずかしくないもので、本当に素敵なものを門出の祝いにと選別としていただいた。 そしてわざわざ、メールでメッセージも送ってくださった。 『あなたのジャッジはすばらしいと思いました』と。

この会話が最後であった。

すでに会社を辞めて2ヶ月弱、自分に何もできないことはわかっているけど何かできたのではないかと思わざるを得ない。 誰かに心のうちを吐露できなかったのか、とか、どこかに駆け込めなかったのか、とか。 自分自身、追い込んでしまい、体がどうにも動かなくなってしまったことを思うと、言えないこともある。 ただ、何かできなかったのか、と。

 


人の死、はどうしても受け入れられない。 誰しも人は死に行く。 誰しも寿命はある。 だけど、やっぱり受け入れられるようになるには、まだ時間がかかると思われる。

 

いつか自分も死ぬ。 それは納得できている。 死ぬことは恐れていない。 だけど、他人の死は、どうしてもなかなか受け止められない。

ただ、別の方向から見れば、今は苦しみや怒りなどのすべてから解放され、きっと安らかなんだと思う。 自由になれたんだと思う。 そう思いたい。 

ワタシが心理学を学ぼうと思った第1の理由は自分自身のためであったけど、ワタシと同じように、世の中に心の闇を抱えて苦しんでいる人は五万といて、その人たちの逃げ場を作ることができたら、駆け込める場所を作ることができたら、という思いもあった。  無力であることは理解している。 祈ることしかできないのが現実。

でも、何かできるのではないか。 あきらめずに、何か、できるのではないか。

 


私が自分の命を絶てない理由は、おそらく普通の人との考えとは違う。 何度かそう思ったことがあることは否定しない。 でも、いつも頭にあったのは、生きたくて必死になっても生きられない人がいるのに、五体満足に生きていて、その命を自ら絶つのは、行きたいと思う人への冒涜だと思うから。 大切な先輩を若くして亡くした。 生きたいと必死になっていた母も亡くなった。 その人たちの姿を知っているので、私にはできない。

 

ただ、人は追い詰められて、行き場がなく、どうしようもなくなってしまったとき、暴挙に出る。 予測もしない行動をとる。 ワタシの場合、それは突如会社を辞めたことにあるが、人それぞれ暴挙は違う。 

それを未然に防ぐ方法は・・・きっとあると思う。 何故そういうことを会社は考えないのであろう。

だからこそ、身分も職業も収入も性別も関係なく、駆け込める場所、話すことだけでもできる場所を作りたいと思った。

 


彼の死は、ワタシにとって、かなりの打撃と衝撃を残してくれた。 ただ、自分が使命としてやりたいことの方角を示してくれた。 Watermanのペンは、きっと今日のこの思いを思い出させてくれると思う。 いつか、心理療法士として心に向き合えるようになるために。

 

どうか、どうか、安らかに。 きっと自由になり、翼を広げて大空を飛んでいると信じています。

祈ることしかできないけど・・・でもこの祈りは彼に届いているはず。

Nさん、どうぞ、安らかに。 そして自由に・・・。

 


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